伊坂幸太郎といえば…
伊坂幸太郎の楽しみといえば…
冒頭からたくさんの伏線が散りばめられ、
ラストに「あーそうだったの!」「スッキリ!」をくれる、というのが
私のイメージ。
「逆ソクラテス」もきっとそうに違いない…と期待に胸を膨らませて読み進める。
「逆ソクラテス」は全部で5つの短編から構成される。
短編といえども、「連作短編」という可能性もあるわけで。
現に共通した登場人物が何人か出てくる。
「逆ソクラテス」
主な登場人物は以下の通り
- ぼく(加賀)
- 担任の久留米
- 安斎(転校生)
- 草壁
- 佐久間(優等生のクラスメイト)
「担任の久留米」は「決めつけるタイプ」の教師。教師の言葉によって、子どもたちは「イメージ」がつき
そのイメージによって、成長を妨げられているのではないか?という安斎の持論、そして安斎がその持論を証明すべく
行動するお話。
「僕は、そうは思わない」
「逆ソクラテス」本文より
安斎のその合言葉をもとに、子どもたちが行動していく様子に
大人としては胸を熱くさせられる。
私も知らないうちに決めつける発言をしていないか?
決めつけられていないか?自分に問いかけたくなる。
「スロウではない」
主な登場人物は以下の通り
- 僕(司・小学五年生)
- 悠太
- 磯憲(担任の先生・ほとんど新卒)
- 高城かれん(転校生)
- 渋谷亜矢(クラスの中心的人物)
- 村田花
運動会のリレーを題材に、「いじめ」をテーマとしている。
クラスの目立たない存在の子と、自分をクラス内の中心に置きたがる生徒。
ここに出てくる磯憲という教師が大変魅力的。
あとがきにあるが、「磯憲」という先生は伊坂幸太郎の恩師から拝借したお名前らしい。
ここで出てくる磯憲が適度に「テキトー」、適度にいい言葉をくれる。
「どうもしなくて大丈夫だ。おまえがこのまま大人になればそれでいい」
「スロウではない」本文より
「非オプティマス」
- 僕(将太・小学五年生)
- 久保先生(やる気のなさそうな新任の先生)
- 騎士人
- 保井福生(転校生)
- 潤(父子家庭)
人を見た目で判断すると良くないよねーという話。
やる気のなさそうな担任の先生を舐めてかかり、主人公のクラスでは学級崩壊が起きている。
それを迷惑に思う「僕」とちょっと変わった転校生の転校生の福生。
福生がまた、「ぼく」にちょっと違った視点を投げかけてくれる。
いつも安そうな服を着ている福生。「これが本当の姿とは限らない」と言う。
久保先生も「それが本当の姿とは限らない。」と福生は言う。
「アンンスポーツマンライク」
- 僕(小学六年生・歩)
- 駿介
- 剛央
- 磯憲(バスケットチームのコーチ)
- 匠
- 三津桜
小学校のミニバス時代からの友人たち。小学校→高校→大人と視点が変わっていく。
スポーツにおける指導ってなんぞや?
ここで出てくる磯憲。「スロウではない」で新任だった先生が、中堅どころ、さらに
「ぼく」らが高校生の時には癌を患って、登場。
また、このストーリーで出てくる、不審者の男。これがラストにも出てくる。
「逆ワシントン」
- 謙介(ぼく)
- 倫彦
- 京樹
- 靖
- 靖のお父さん(お母さんの再婚相手・若くて茶髪)
- 謙介の母親(いじめを憎み、「正直者」を愛する少し変わったお母さん)
靖のお父さんが虐待をしているかもしれない、と疑い倫彦と僕が奮闘する。
いい感じにファンキーなお母さんが魅力的。
物語のラストで、お母さんが新しいテレビを購入しに行った先の店員さんは「アンスポーツマンライク」の犯人だと推定される。
犯罪を犯したけれど、再生しようとするところが描かれている。
期待/推察/予想
さて、私の期待としては
物語の冒頭部分、誰かがテレビをつけたり消したりしている。
それが誰なのかは、はっきりとは書かれていない。
そこがきっと最後に「あーあいつか!」となるのかなと期待していた。
しかし、単行本を最後の最後まで読んでもそれがはっきりとは描かれていない。
(私の読み込み不足かもしれないけれど)
「逆ソクラテス」冒頭にて、テレビ中継の中で出てくるプロ野球選手が
草壁くんであることは想像できる。
では、その草壁くんがもしプロの選手になっちゃったら「つらくてテレビを消しちゃうぜ」と想像されていた担任の久留米先生が
冒頭に出てくるテレビを消したりつけたりしている人物なのか?
それはそうとは言い切れない気もする。
その前から、彼はテレビを消したりつけたりしているわけで、
彼の仕草を見たから消した、ともいえない。
そして「新しいテレビ」
これはラストで謙介の家が「新しいテレビ」を購入する場面で終わるところから、
では謙介のお父さん(単身赴任中)が冒頭の人物なのだろうか?とも想像できる。
では、久保先生が、教師を続けていれば単身赴任、と言うのもおかしいし、
謙介のお父さんとして想像される人物像から
久保先生は連想しにくい、と私個人は思う。
謙介のお父さんは、
自分が感動したものを家族と共有したがり、
謙介が「正直」であったことを褒める人物。
キャラ変にしても、それでは想像しにくい。
推察、と言うよりは願望なのだけれど、
冒頭の人物は
「ぼく」もしくは「安斎くん」がいいなあと思っている。
「新しいテレビ」の部分で言うと、謙介のお父さんが「逆ソクラテス」の「ぼく」で…とも思うものの、
「ぼく」は草壁くんとは再会してお酒を飲んだりしている。
ということは、テレビをぼんやりつけたり消したりする様子も違う気がする。
どちらかといえば、
転校してしまい、音信不通となってしまった安斎くんが懐かしんでいる、と言う様子がいいかなあと
思うのだけれど、
さてさて、単純に「短編です」と言い切られればそれはつながりはありませんよ、ということにもなる。
ただ、「逆ソクラテス」は登場人物の名前が苗字のみで、
「逆ワシントン」での登場人物は下の名前のみ。
これは作家の意図があると思ってしまっても仕方ない。
こうした想像を膨らませる作業が面白かったり、
伊坂さんの作品の中でお気に入りの言葉を見つけるのも楽しかったりする。