「リボルバー」に思う、フィクションという可能性
原田マハさんの作品には、完全なるフィクションのものと、
美術史をもとにしたフィクションとがある。
今回読んだ「リボルバー」は美術史をもとにしたフィクション。
主人公はオークションハウスに勤め、ゴッホとゴーギャンについて研究している女性。
そのオークションハウスに、「リボルバー」が持ち込まれる。
これはゴッホの自殺に使われたリボルバーだ、と。
さて、オークションにかけるべきか否か、真実はどこにあるのか…
こうした、史実をもとにした物語というものは好き嫌いが分かれるところだと思う。
なぜなら、「んな、ばかな」みたいな感想をもつ人も少なからずいると思うのだ。
けれど、私みたいな空想好きには、断然「アリ」だ。
「物語って自由だ」と思う。
「こうだったらいいな」や「こんなこともあるかもしれない」という気持ちを掻き立ててくれる。
フィクションには無限の可能性がある。
「リボルバー」を読んで、フィクションと現実を調べてみる
私が「んな、馬鹿な」を判断するほどに美術史に詳しくもなければ、
美術自体の知識も持ち合わせていないので、
この空想の限界も、矛盾も見抜くことはできない。
けれど、最後に載せられた参考文献を見るだけでも
膨大な資料を元に作られたものであることは容易に想像できる。
だからこそ読んでいて、どこまでが現実でどこからが創作なのか、
気になるところ。
さて、本文に出てくる
主人公が務めるオークションハウスはまず架空であろう。
で、調べるために訪れたインスティチュートファンゴッホ。
こちらは実在するもののよう。
ラヴー亭については、以前の原田さんの作品「たゆたえども沈まず」で勉強済み。
そのラヴー亭を現在、管理しているのがインスティチュートファンゴッホらしい。
そこはリアル。
https://www.mmm-ginza.org/museum/special/backnumber/1006/special01-02.html
こちらで勉強。
その一方で、代表者が登場人物として出てくるので、実際の人物だろうか、と思ったら
そちらはフィクション。
「リボルバーがオークションにかけられた」は事実らしい。
それを最後まで読んでから知る、私。
結構なニュースになっただろうに。
この事実と入り混じったところをあれこれふむふむと後から検証するのもまた楽しみなところ。
「リボルバー」から、ゴッホとゴーギャン
昔、ゴッホ展に行ったことがある。
炎天下の中、美術館の外まで延々と長蛇の列ができて、展示が見られるまで長い長い時間を要した。
さらに、展示室に入ってからも実際の絵までは遠く、一体何を見に行ったか、何を見られたのか、
残念ながら覚えていない。
それでも、なぜかゴッホに惹かれる。
そういう日本人が多いのではないだろうか。
「たゆたえども沈まず」を読んで、そのわけはなんとなく理解できた。
それゆえなのかどうかわからない。
ゴッホの作品から感じる哀愁が日本人の心を揺さぶるのだろうか。
それとも私の心を揺さぶるのだろうか。
他のみんながどこにゴッホに惹かれるのかはわからない。
けれど、日本で特にゴッホが人気なのはわかる。
いろんな創作物の中で、ゴッホの名前が出てくる。
定期的に開かれるゴッホ展の回数の多さでもわかる。
原田マハの作品の中でもゴッホに対する愛情は強く感じられる。
ゴッホの絵を描写する言葉に深い愛情を感じる。
アルルの夏をひまわりの黄色がまばゆく彩り、サン=レミの初夏をアイリスの青が凛々と縁どっていた。
オリーブの枝葉は幾千の銀色の蝶となって風の中で乱舞し、夜半の糸杉は黒い塔に姿を変えて月を貫いていた。
オーヴェールの野ばらは宵闇をすくい取ったようにひんやりと青くほころび、
風が麦畑のさなかに黄金色の道を切り開いていた。(「リボルバー」本文より)
こんなふうに。
見たことがなくても、その絵画を想像できるようだし、
目にしてみたい、と思わせるような描写だと思う。
けれど、実は、この物語はゴッホの物語ではない。
どちらかといえば、ゴーギャンだ。
ゴーギャンも名前は知っていても、どんな絵があるかは知らなかった。
こうして本を読んでいると、いくつか作品の名前が出てくる。
そうすれば、自ずとどんな作品か見たくなるものだ。
いつかオルセー美術館に行ってみたいなあと思う。
原田さんの本をもっとたくさん読んで、世界各地の美術館を巡ってみたいなあと思う。
そういう意味で、読書はいろんな世界のとっかかりになるなと
改めて思う今日この頃。